能登半島地震から半年後、奥能登の地に実際に足を運び、目にした風景、肌で感じた想いを残す記録。珠洲市への訪問2つのミッションを終え、次のミッションは、「伯父家族と会う」こと。
母や兄弟と長らく疎遠だった伯父の安否がわからず、避難所を訪ねながら手がかりを探しました。地元の人々の温かさやつながりの力に助けられながら、奇跡的に伯父家族の無事を知ることができました。
珠洲訪問ミッション 3 ──伯父家族を探す
母や兄弟と長らく疎遠になっている伯父。地震の後、伯父家族がどこにいるのか、連絡先も生死もわからない状態でした。
「昔お世話になったお礼を伝えたい」—— そんな叔父の願いを叶えるため、手がかりを探すことにしました。
安否確認の壁と、地元のつながり
市役所を訪ねましたが、個人の安否情報は教えられないとのこと。しかし、「地元の避難所で聞けば、知っている人がいるかもしれない」とアドバイスをもらい、2か所の避難所を回ることにしました。
そこで驚くべき出会いがありました。
どちらの避難所でも、母の遠い親戚や同級生など、何らかのつながりのある方と遭遇!実家の苗字と地名を伝えただけで、「ああ、あの家の人ね」と話が広がる。
地元のコミュニティの強さを改めて感じた瞬間でした。
伯父夫婦はもともと地域との付き合いが少なく、どこにいるのかは分かりませんでしたが、生存していることは確認できました。それだけでも、私たちにとっては大きな安心でした。
お昼頃に訪れた避難所では、ボランティアさんたちがお昼の支度をされていました。「ちょうどご飯ができたから、食べていきなよ」と声をかけていただきました。

遠方から来た私たちに、心温まる食事をふるまってくださったことに、ただただ感謝しかありません。

水も不足している厳しい状況のなかでも、ボランティアの方々をはじめ、皆さんが笑顔で過ごしている姿が印象的でした。

その節はありがとうございました
その避難所に滞在中、朝、市役所で対応してくれた職員さんが、個人的なつながりで伯父家族(私のいとこ)と連絡を取ってくれていたおかげで、伯父たちがどこに住んでいるのかも判明。
(※後日、伯父と母、そして叔父が再会することができました。)
あまりにも偶然が重なり、まるで導かれているような気持ちになりました。本当に、感謝しかありません。
被災地の現実
嬉しい出来事がある一方で、周囲には震災の爪痕が色濃く残っていました。


倒壊した家、ひび割れた道路。母と叔父は、心当たりのある友人の家を訪ね歩きましたが、「家が潰れていた……」と肩を落として戻ってきました。
どんな言葉をかければいいのか、見つかりませんね。
訪問したのは梅雨時期でしたが、この日は雨が降らず、晴れ間も見えました。海の景色だけ見ると、大きな災害があったとは思えないほど美しい。少しだけ心を和らげてくれました。


珠洲訪問ミッション 4 ──気になる場所を訪ねる
両親には、気になっている場所がありました。でも、「わざわざ行かなくてもいいよ」と、私たちに遠慮している様子。
それでも、せっかくここまで来たのだから、次にいつ訪れることができるか分からない。できるだけ、両親の行きたい場所には連れて行きたいと思いました。
そこで、珠洲市街地へ向かうことに。
震災から半年、なお続く傷跡
訪れた場所は、津波の影響を激しく受けた地域。被害の大きさを改めて実感しました。倒壊した家々、傾いた標識、瓦礫の中に埋もれたままの車。


ボランティアの方々が片付け作業をしていたり、重機で撤去が進められていたりするものの、震災から半年が経っているのに、この状況。


母の知り合いのお店に立ち寄りましたが、残念ながら、完全に崩れてしまい、跡形もなくなっていました。
また、両親が長年愛用している酒造へも足を運びました。


お店は綺麗なままでしたが、すぐ横の崖には崩落の跡が残り、震災の影響を物語っていました。酒蔵自体も大きなダメージを受けたため、販売されているのは被災を免れたお酒のみ。
それでも、スタッフの方と母が訪ねたかった知人が偶然つながり、思いがけず話し込む時間が生まれました。



母よりも父が、長々話し込む(笑)
私たちはジェラートを食べながら、しばしのひととき。結構長居してしまいました。


能登の強さ、美しさ
震災から半年が経っても、能登の爪痕は大きく、いまだに断水が続く地域や、再開の目処が立たない道の駅、使用できないトイレも数多くありました。
観光名所だった見附島の形も変わってしまいました。
それでも——能登の人々は、変わらず優しく、強い。そして、自然の美しさも、変わらずそこにある。少しずつ観光も再開され始めています。もし機会があれば、ぜひ奥能登まで足を運んでみてください。
この後、私たちは金沢へ向かいました。
――➡能登半島珠洲を訪ねて④につづく。

