母の故郷・能登半島珠洲を訪ねて④--震災から半年。見えたもの・感じたこと

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能登半島地震から半年後、奥能登の地に実際に足を運び、目にした風景、肌で感じた想いを残す記録。

旅も終盤に差し掛かりました。石川県外に避難していた伯父と再会するというミッションを残し、金沢駅で叔父とはお別れ。私たち家族は駅前で美味しい料理とお酒を楽しみ、もう一泊することにしました。

翌日は兼六園を少し散策し、私たちも帰路につきました。

最後に、この旅で感じたことを書いておこうと思います。

目次

家族の感謝

高齢の両親にとっては体力的に大変な旅だったと思います。それでも、震災後の故郷を訪れたいという願いを叶えることができ、本当に良い時間になりました。

何十年ぶりに再会できた叔父に感謝
長距離運転をしてくれた夫と妹に感謝
そして、わざわざ遠方から来て両親を笑顔にしてくれた娘にも感謝

急な仕事で金沢から朝一で帰った娘。実は、珠洲市に到着した途端、戻らなければならない状況でしたが、職場の配慮で一日だけ帰るのを遅らせ、金沢までは一緒に過ごすことができました。

もしまた機会があれば、ゆっくり能登を訪れたいと言う気持ちになりました。そして、今回あまり観光できなかった金沢にも。

震災から半年、能登の今から感じること

2024年1月1日に起きた能登地震で、珠洲市内の被害棟数は5,541棟。無被害だったのは、わずか52棟だったそうです。避難所は15か所開設されました。

半年後に訪れた珠洲市では、震災の爪痕があちこちに残っていました。崩れ落ちた家々、倒壊した建物の下敷きになった車、傾いた道路標識。断水が続く地域や、営業できない施設も多くありました。

奥能登という地理的特性もあり、復興のスピードは決して速くはありません。阪神淡路大震災を経験した私ですが、能登の復興の難しさはまた違うものでした。

普通の生活ができていない人々が今もいる一方で、リニアモーターカーや万博など、新たなプロジェクトが進められている。その資金や人材の一部を、震災復興に回せないものだろうか——そんな思いがよぎりました。

さらに、その後9月には能登豪雨が発生。心が折れた方も多いことでしょう。「頑張って」と軽々しく言えない。けれど、どうか頑張ってほしい。そう願わずにはいられません。

復興が追いつかない中で次の災害が起きれば、報道はそちらへ移り、過去の震災は忘れられていく。どの災害だったかあいまいになってしまいます。けれど、被災地の人々の苦労は、時間とともに消えるものではありません

今回被災しなかった者ができることは、忘れずに思い出すこと。心を寄せること。命を無駄にせず、一生懸命自分らしく生きることだと思います。

子どもの頃、能登は楽しかった

毎年夏休みに、能登の地で過ごした楽しい思い出をふと思い出しました。

海岸でちっちゃくて綺麗な貝殻を集めたこと。家の縁側で食べた『こふきいも』や、まち針で殻から出して食べた「しただめ」が美味しかったこと。

そんな思いに浸りながら、金沢で買った能登の銘菓「いも菓子」を食べました。さつまいもの形をした、外側がニッキ風味の素朴なお饅頭。私は今、甘いものは得意ではないけれど、昔の懐かしい味がしました。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

➡母の故郷・能登半島珠洲を訪ねて①
➡母の故郷・能登半島珠洲を訪ねて②
➡母の故郷・能登半島珠洲を訪ねて③


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